しろの塔のソフィア【童話】

童話

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どうぞご自由にお楽しみください。


思考実験「メアリーの部屋」をテーマに、読みやすい童話にしました。
考えさせるストーリーになるよう仕上げています。


しろの塔のソフィア

昔々、広い王国に、一つの白い塔がありました。

その塔の中には、ソフィアという少女が住んでいました。

ソフィアはとても聡明で、生まれたときから塔の中で育てられ、外の世界を一度も見たことがありません。

しかし、塔には世界中の書物と映像が揃っており、ソフィアは毎日勉強をして、空の色、森の匂い、海のしぶき、春の風の温度――そのすべてを、完璧な知識として学びました。

彼女は、まだ見ぬ花の名前をすべて知り、まだ聞いたことのない音楽の構造を理解し、まだ味わったことのない果実の甘さを、分子レベルで説明できました。

ある日、王国で最も偉い学者たちが集まり、こう言いました。

「ソフィアは、この世界のすべてを知っている。外に出る必要など、もうないのでは?」

けれど、ある年の春。

塔の扉が、風に揺れるようにそっと開いたのです。

ソフィアはゆっくりと外に出て、はじめて本物の空を見ました。

それは知識としては知っていた、青色でした。

でも、その瞬間、彼女の目から涙がこぼれ落ちました。そして、地面にしゃがみ込み、草のにおいを吸いこみながらこう呟きました。

「……こんなものだなんて、本には書いてなかった」

鳥のさえずりが耳をくすぐり、太陽のぬくもりが肌を照らし、はじめて飲んだ泉の水の味に、彼女は言葉を失いました。

知っていたはずの世界が、知らない顔をしていたのです。

外の世界に出たソフィアは、毎日が新しい発見の連続でした。

風のにおい、土のぬくもり、人々の笑い声、誰かの涙――

本に書いてあったそれらが、現実の中では全く違う姿をしていることに、彼女は何度も驚きました。日々を重ねるごとに、ソフィアの知識は深まり、そして揺らいでいきました。

世界とは、計算式や文章では測れないものだと、少しずつ、静かに気づいていったのです。

やがて一年が経ちました。

ある晩、ソフィアはふと、かつて自分がいた「しろの塔」を思い出しました。

窓のない部屋、膨大な本、無限の知識、そして……そこにあったひとりきりの静けさ

次の日、ソフィアは荷物をまとめ、再び塔へ向かいました。

誰もいない白い階段をのぼり、かつての日々を思い出しながら、塔の最上階へたどり着きました。変わらず並ぶ本棚。止まったままの時計。開かれたままのノート。

ソフィアは椅子に腰かけ、懐かしい書物を開いて読みました。そこには、かつて自分が完璧に理解したはずの文章が書いてありました。

けれど――今読むと、まるで違う意味に感じられるのです。

「風が草をなでるように吹きぬける」

前はそれを、空気の流れと草の摩擦の現象として覚えていました。

でも今は、目を閉じれば風の音と手ざわりが、記憶の中でちゃんと“鳴って”いる

ソフィアはふっと笑いました。

「本は変わっていないのに、読む私が変わったんだわ」

彼女はそれから、塔での日々をもう一度始めました。

でも以前とは違います。

今のソフィアは、本を読むたび、外の世界の“記憶”と“実感”で、文字をあたためることができるのです。

そして、彼女は少しずつ、本の余白にこう記していきました。

「これは“知っていた”。でも、いまは“わかっている”。」


――すべてを“知っている”ことと、実際に“感じる”ことは、同じなのだろうか?

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